『社員教育』 (121) 「人は40歳を過ぎたら 自分の顔に 責任を持て」
おはようございます。ホモ・サピエンスとネアンデルタール人のかかわりが解明されてきている現在でも一年前の大切な事が公の場で思い出せないと発言する人がいるご時世です。次のエピソードの真実は分かりません。
アメリカ第16代大統領リンカンが大統領に就任した折、閣僚人選中のリンカンに側近が、「閣下、この人物を加えてはいかがでしょう?」と進言した。「会った上で考えよう」とリンカンは答えた。
そこで側近が早速その男をリンカンに引き合わせた。翌日「閣下、昨日の人物はいかがでしたでしょうか?」と訊きに行ったところ「顔がだめだね」と答えた。側近が「お言葉を返すようですが、顔は両親の遺伝であって本人の責任とは思えませんが、なぜでしょう?」と訊き返した。
「ウン確かにそうだ。しかし君ね、人は40歳になったら自分の顔に責任を持つことが大切なことだと、日頃から私は考えている。その点残念ながらあの人には感じられなかった。無論のこと私の右腕である君の目を疑っている訳ではないが、期待に応えられず済まない」といったニュアンスの話が残っている。
人は誰しも成人し社会人として40歳になるまでには様々な人生経験を踏みます。成功することもあれば失敗することもある。いずれにしろ苦労を乗り越えてくれば内面的態度(心の構え)が外面的態度に表れるように、様々な経験が長年かかってできる年輪のようにおのずと顔に刻み込まれる。しかし、本当に苦しんでいないと、40歳になっても味のある表情が形成されない。
つまり、奴隷解放の父となったリンカンが言いたかったことは、「他人の痛みが分かる顔を持て」ということだったのでしょう。
仮にそうであれば、痛手というのは外傷です。出血します。包帯を巻いていても血が滲んでいれば他人が見ても分かります。その点『言葉』での心の傷は、刃物での刺し傷と違いその痛みが本人以外には分かりません。
そこでSNSのご時世、エイブラハム・リンカンの言葉『人は40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て』の意味するところを貴方(貴女)なりにお考え頂ければと思います。
では、今日も一日お元気で。ありがとうございました。
❒ 社員教育講師『人材教育研究所』 (「過去と未来は『鉄の扉』。変えられる未来に
向かって挑戦しよう ‼」)